Vol.1
16歳の春
腎臓病とつき合うようになったのは高校生になったばかりの春でした。入学時の検診で「蛋白が出ています」と言われ、その後2次検査、3次検査と何度も再検査を繰り返していく間に、どんどん腎機能が悪くなっていきました。
16歳の春のことでした。
私自身、風邪をひきやすかったものの、それ以外は病気ひとつしない元気な子供でした。その私がどうして腎臓なんか悪くなったんだろう? そもそも腎臓ってどんな臓器なんだろう??そんなことさえわからない自分がそこにはいました。
診断書には「慢性糸球体腎炎、遊送腎」と書いてあったと思います。腎臓がプリンみたいに動く?とか説明されたような記憶があります。
当時、友達が入部していた軽音楽部によく顔を出していて、自分も楽器を演奏してみたい!と思うようになり、弟がベースを持っていたというだけで「じゃあベースやってよ」ということになりました。秋の学園祭に向けて皆で持ち寄った曲を必死で練習をしていました。
9月某日、学祭を目前にして病院から電話があり、練習した腕を披露することなく、入院。「あと一日遅かったら、皆と一緒にステージに立つことが出来たのに!」後悔したところで、入院日程はずれる訳もなく、荷物を持って新宿にある東京医科大学病院へ検査入院の為、向かいました。
入院した部屋は8人部屋でした。一番手前のベッドだったので、奥の方がどんな方だったか、よくわかりませんでした。入院は1ヶ月に渡りました。その中でもメインの腎生検の時は、前のベッドのおばさんが「絶叫するんじゃないかって、
ひやひやしてたわよぉ」と言われた事を覚えています。背中に針を刺したけど、その前の麻酔注射が痛くて、背中に刺された方はほとんど痛みは感じませんでした。
入院中は、同室だった中学1年生の子と一緒に、よく病院探検に出かけました(笑)そして暇に任せてよく絵を描いていました。窓の外の景色とか、芸能人の顔とかだったけど。


あっという間に透析導入
2度目の入院は高校3年生の夏休みでした。この時すでに腎機能が悪化して、尿毒症になり、血尿が出たり、だるかったり、具体的な症状が出始めており、学校に通うのが辛かった時でした。担当医から「そろそろ透析の準備に入りましょうか」と言われて、シャントの手術を受けることになりました。
シャントとは、血液透析では十分な血液量を得るために,動脈と静脈を体内または体外で直接つなぎ合わせたものです。
私の場合は内シャントといって、手首の内側を4針ほど切って体内に作りました。そして血管がもろくて細くて、いいところがなく、手術自体も大変長くかかりました。(「笑っていいとも」の時間に手術室に入り、終わって出てきた時は「夕焼けニャンニャン」が始まっていました(笑))
透析導入後の1ヶ月は、新宿まで通院して透析をしていました。何が辛いって、朝のラッシュ時の電車はとてもきつかったです。よく立ちくらみのようになっていたので、席を替わってもらったりしていました。(感謝!)


気が付けば、透析人生の始まり
私は比較的良いデータの時に透析に入ったので、週に2回4時間コースでした。最初はそんなにつらいとか、苦しいという思いはありませんでした。「これならなんとかやっていけるなぁ」なんて気軽に考えていました。でもやっぱり1ミリはあろう針を毎回さすのはとても抵抗がありました。
まだ高校生だったので、夜間透析(5時から9時)を受けていました。同じ時間に面白いおじさんがいて、ベッドに横になると針をさされる!と思ったらしく、何度看護婦さんに言われても「寝ない人」がいました。
私が通っていた透析室は、夜間はほとんど男性ばかり(たぶんサラリーマンとか)で、若い人がほとんどおらず、友達と呼べる人はそこにはいませんでした。(その前に何枚もネコをかぶっていたので(笑)とても大人しい(暗い)子だと思われていたようです)
透析室と更衣室のフロアが別れていたため、更衣室で着替えて、透析室にエレベーターで荷物を持って上がって行っていました。更衣室には、私以外に数名のご婦人がいて、毎回透析の前に寄り集まっては「なんでこんな病気になっちゃったんでしょうね〜」「ほんと、嫌になるわぁ」と愚痴をこぼしていました。(あの輪に入ったら、自分も病人になってしまう!)と漠然と思い、それゆえあえて知り合いを作らなかったのかも知れません。
はじめはせっかく作ったシャントがうまく働かず、なかなか発達しなかったので、始めるまえにお湯に腕をつけて暖めてから透析をしないと使えないというほどでした。初めは本当にとれなくて、シャントからなるべく離した所を刺さないといけないのですが、なんとシャントから5センチの所に刺した痕が残っています。
シャントがうまく働くようになり、余裕が出て来た頃は、友達に左手首を見せて「ここ、実は電気が走ってるんだよ〜」と言っては触らせて、「うわっ、本当だ!」と何も知らない友達を驚かせていました(笑)


足がつる!
初めの1〜3年はまあよかったのですが、そのうち水分を取り過ぎるようになり、透析を受けるたびに足がつってテクニシャン(透析技師)の方達に毎回足を押さえてもらいながら、透析をしていました。足がつるたびに、「こんな思いをするなら、次回こそ!水分制限してがんばる!!」と思っていても、つい、沢山飲み過ぎてしまって、また同じことの繰り返しでした。だんだんのみぐすりもいい加減になり、毎回先生から頂く成績表にも、「リンが多い!」とかいろいろ書かれていました。
透析を受けていていちばんつらかったのは皮膚のかゆみで、体全体が常にかゆく、寝ている時でもかいてしまう為、よく腕とか足とか、掻きむしった後が出来ていたほどでした。とりあえずの薬もあったけど、どんなに種類を替えても新しく出た薬でも、気休め程度にしかききませんでした。
後は透析をした次の日の午前中が「不均衡症候群」が起こり、常に気持ちが悪く、貧血でふらふらしつつ、仕事をしていたのを覚えています。透析が終わるのが遅いと10時近くになってしまう為、自転車でふらふらと走っていると、パトカーがやってきて尋問されたり、そのまま送ってもらったりしたこともありました。身体障害者1級にもなると、市から福祉タクシー券を頂けるのですが、それも、毎回乗っていればあっという間になくなり、義兄に最寄り駅まで来てもらい、自宅まで送ってもらったことが何度もありました。(お義兄さん、その節はいろいろとありがとうございました)


なんとか就職出来ました
就職先も週2回も早退しないといけなかったので、見つけるのが大変でした。高校を卒業して最初に就職したのは透析室のあるビルの隣のスーパーでした。レジの仕事は好きだったけど、立ち仕事はやはり辛く、長くは続きませんでした。その後、友達のいる会社になんとか就職して、就職することができました。その会社は西新宿にあったので、週に2回、火曜金曜は4時で早退させてもらっていました。その足で新宿から特急に飛び乗り、透析室に滑り込みセーフ!という感じで毎回通っていました。
私が入社する前にも、透析をしていた男性がアルバイトで働いていて、すぐに辞めてしまったので、最初は続くかどうかとりあえず働いてみる?程度でした。遅刻や早退もあったけど、仕事が何より楽しく、同僚達も気の合う仲間だったので、毎日楽しく働く事が出来ました。それと同時にバンド活動をしていたり、あちこちコンサートに行っていたり、睡眠不足を透析室で補うといった無謀な生活を送り、当時の私は今より絶対元気だった!と思います。


あきらめの気持ち
そして仕方なく透析室に通っているうちになかば「あきらめ」の気持ちが大きくなっていきました。両親も兄弟も血液型がちがう、という決定的な事実があったからです。このまま透析をしていても、なんとか生きて行けるだろう。まあ、よくもって40歳まではこのまま行けるかな。それ以降はその時また考えよう!この時すでに透析導入後、6年が経過していました。
まさか見知らぬ人から腎臓をいただけるなんて、思ってもみませんでした。死体腎(現在は献じん)登録のことも、透析を始めたときにしていたものと勝手に思っていたので今までほったらかしになっていました。あるとき「かまぴーさんは移植をする気はないの?」と看護婦さんに言われ、「えっ、登録はしてますけど」と話しをしましたが、調べてもらうとまだ移植の登録はしていない、とのことでした。少しでも希望はもっていたかったので、すぐに移植の登録をしに東京医科大学八王子医療センターに向かいました。このとき驚いたのが、ものすごく沢山の血液をとられたことでした。そしてポラロイドで写真を撮られ、移植の説明を受けました。「写真を撮るのは、回って来た時に病院側で顔を思い出せるようにと言う事です」と移植コーディネーターさんから言われました。でも現実的に考えても「宝くじにあたるような確率」の移植を私が受けられるとは、かけらも思っていませんでした。


宝くじ当選の電話
移植の登録をして数カ月、その「宝くじ当選」の電話がきました。あのときは勤めていた会社を辞めて、いざ就職活動をしよう!と思っていた時で、会社に気兼ねせずに入院、手術が受けられる状態でした。私は友達と遊びに行っており、自宅に戻ってその電話が来た事を初めて知りました。
本当に突然でした。6年近く透析をして、半信半疑で登録をし、それは半年後に訪れました。
「心の準備」なんて出来ているはずもなく、当時バンドを組んでいた私はメンバーに「どうしよう、やるべきかな?ライブがあるからやめたほうがいいかな?」などと、馬鹿げた質問をしつつ、一晩悩んだ挙げ句、移植をすることに決めました。翌朝コーディネーターさんに承諾の電話をし、すぐに採血のために病院に向かいました。(この時点ではただ「私の名前が1番に上がった」というだけで、移植を受けられるかどうかは結果次第でした。)
今でも覚えているのはこの時も「とにかくたくさん血を採られた!」ということ。手術のこととか、実際の入院のこととかは全くといっていいほど、考えていませんでした。(まだほんとうに移植ができるかどうか?なんてわからないから)
この時点で「ドナーがいつどうなるかわからないから、なるべく自宅で待機していてくださいね」と言われたのにもかかわらず、どうしても見たかったコンサートに行ってしまいました。
「かまぴーさんはいらっしゃいますかー?」
コンサート会場に突然アナウンスがあり、内容は思った通り「ドナーが危ないからすぐに病院に来て下さい!」でした。でもまだコンサートはこれからだったので、やっぱり見てから行ってしまいました。しかし会場は船橋のららぽーとの中。でも病院の場所は高尾。千葉から東京のはじっこまでなんて、今考えると「無茶したなー」って思います。でもなんとか入院する前に行けるところに行っておこう!と思ったので。


看護婦さんですか?
一緒にコンサートに行った友達に、電車の中で励まされ「なんとかがんばってくるね!」といい、途中で別れて、高尾駅に到着。慌ててタクシーに乗る。時間が時間だった為か「看護婦さんですか?お仕事ご苦労様」と言われてさすがにこれから移植を受けるんだ!とは言い出せず「はい〜、そうなんです〜」なんて適当に受け答えてしまいました。
病院着22時50分。もうとっくに院内は寝静まっていました。先生が慌ててやってきて「今晩はとにかく透析をやるからね、手術は明日朝9:00からです。」
えっ?!今から透析、しかももう明日手術なんて!千葉から食べるものとろくに取らずに飛んで帰って来たので、担当の先生と移植について簡単に説明を受けていた時、お腹がぐるぅ〜っと鳴りました。「何か食べるものを買う事は出来ませんか?」「もう売店は開いていないから、これを食べていいよ」と、いちご一パックと確かショートケーキかなにかだったと思います、を頂きました。透析中はあまり食べられなかったので、嬉しくてつい全部食べてしまいました。「これで心不全になったら洒落にならないなぁ」なんて思ってしまいました。その後簡単に採血やら検査をして透析室へ。真夜中でしたがいつも通り4時間透析をしました。当然透析室には私一人。(あぁ、これで辛かった透析ともお別れなんだ)と思いつつ、期待とこれから受ける「移植手術」というものに対する不安とで、頭の中はぐしゃぐしゃでした。

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